2014年5月31日土曜日

イギリス産蛍石



実物はもっと青いです

 濃い緑色のイギリス、ロジャーリー産蛍石を入手しました。無粋ですが、この色を見ると緑色の強烈な洗剤とか、マウスウォッシュを思い出します。白い部分は洗剤の泡です。この蛍石は、電灯の下では緑色ですが、日光に当てると縁が群青色に見えます。写真で見ても、「ほう、それで?」というところですが、実物を見ると結構驚きます。天然のものがこのように色変わりするということはほとんど神秘的ですらあります。おそらく、ブラックライトを当てると蛍光するのだろうと思いますが、私は蛍光するかどうかにはそこまで興味がなく、持っていないので分かりません。

鉱石を収集して思うのは、標本は大きければ大きいほど良いというものではない、ということです。一抱えほどもあるものはインパクトがありますが、日本で一般的な家に住む限り、飾る場所に困ります。(偏見ですが)下手をすると、簡単に持ち上げられないサイズの標本は、こけしや木彫りのクマのような民芸品と一緒に床の間に飾られているおじいちゃんのコレクションを思わせます。大きいのは博物館で見れば良いと思いました。とはいえ、小指の先ほどの小ささでは悲しく、重量40~200gほどのサイズが好みです。標本カードには産地の他、購入元、価格、買った日付と重さを記載しています。

2014年5月24日土曜日

MaddAddam(本)



【書誌情報】
Margaret Atwood, MaddAddam, Bloomsbury Publishing, 2013

【あらすじ】
Oryx and Crake, The Year of the Floodに続く、カナダの作家、マーガレット・アトウッドのMaddAddam三部作の完結編である。
クレイクが発明したブリスプラス薬の普及により、人類はほとんど壊滅状態となった。生き残ったのはクレイクの開発した新人類、「クレイカー」たちの他、クレイクの幼馴染であるジミー、アダム・ワンが率いる新興宗教団体「神の庭師たち」のメンバーであり、前作のヒロインであったトビー、レン、同じくメンバーのゼブ、クレイカーの開発に携わった人々などである。前作は、トビーとレンが凶悪な二人組から仲間のアマンダを救出し、ジミー、クレイカーたちと出会ったシーンで終わっていた(ここまでの説明は、本書の冒頭にあり)が、本作は、生捕りにしていた二人組をクレイカーが保釈してしまったところから始まる。
救出したジミーとアマンダは衰弱し、トビーは看護の腕前を発揮して二人を治療する傍ら、ジミーに代わってクレイカーに物語を語って聞かせ、文字を教える。共に生活する「神の庭師」たちと、クレイカー開発者たちは、自給自足と、打ち捨てられた店から物資を取ってくることにより、概ね平和な生活をする。ゼブは、トビーに自分と兄、アダム・ワンの過去を明かす。しかし、二人組のペインボーラーはまだ近くを徘徊しており、彼らの生活に脅威を与えていた。

【コメント ややネタバレあり
Oryx and Crakeと、The Year of the Floodという、同じ時期(21世紀のいつごろか)に、別の地点で起こっていた物語は、第二作の後半から徐々に絡まり初め、本作で一つに融合しています。MaddAddamitesと呼ばれる、オンラインゲームMaddAddamのプレイヤーで、クレイカーの開発に携わった人々が、名前とキャラクターを伴って登場し、ジミーやトビー、レンなど前二作の主役たちと共同生活をしますが、彼らは脇役に過ぎません。本作で主役に据えられているのは、「神の庭師たち」のリーダーであったアダムと、その弟のゼブです。

アダムとゼブは異母兄弟で、その父親は石油を至高の存在とみなす、腐敗した新興宗教の教祖でした。二人は父親に反発し、家出をします。ゼブは、ヘリコプターの操縦士や、手品師の助手、コンパウンドの雑用係などの仕事を転々とした後、アダムの率いる「神の庭師たち」に加わります。兄弟は、第一作に登場する前のクレイクと接触があったことが明かされ、クレイクの世界観の形成や、ブリスプラス薬の開発に至った経緯に、アダムとゼブが間接的に寄与していたらしいことも分かります。前作ではほのめかされてすらいなかったことが、本作で明らかにされて行く様は、スリリングです。まるで、大きな一つの風景に、三部作それぞれ別の部分にピントを合わせることにより、徐々に全貌が見えてくるかのようです。

Oryx and Crakeでは、ジミーがクレイカーたちに、クレイカーを創造したクレイクと、動物たちの守護神であるオリクスについて語って聞かせますが、本作でのジミーはこれまでの体験と怪我によりすっかり衰弱しており、もはや語る気力を失い、役割をトビーに譲ります。トビーはジミーから聴いた話と、自分の経験と、創作をうまく織り交ぜて、優れたストーリーテラーとなります。 トビーの物語と、無垢なクレイカーたちのやりとりはユーモラスで、ところどころ大笑いしました。トビーから文字を教わるクレイカーの子供、「黒髭」のキャラクターは、これまで自分が読んだ本に登場する子供の中でも随一のかわいらしさでした。

三部作は聖書のモチーフが随所に散りばめられています。クレイクは新人類を創造した上で、ノアの箱舟の大洪水を思わせる「水なし大洪水」(死に至る病の大流行)を発生させるなど、神のごとき力を持った存在であり、その所業を語るジミーやトビーは「預言者」なのでしょう。楽園と、アダムとイヴの挿話はThe Year of the Floodの屋上菜園と、そのメンバーの「アダム、イヴ」という呼び名に見られます。MaddAddamは、聖書のアダムが動物たちを命名したことをもじって、絶滅した動物の名前を挙げていくようなゲームでした。本シリーズにおける「知恵の実」は遺伝子操作などの行き過ぎた科学技術であり、サタンという、外部に存在する悪魔ではなく、人間の欲望が肥大し、禁断の領域に手を出したことが、世界の崩壊の引き金となります。ジミーにとって、オリクスのイメージがフクロウであり、"owl woman"と呼んでいるのは、オリクスがイヴではなく、リリスであることを示唆しているのだろうと思います。Scales and Tailsは、コールガールが、蛇のような鱗つきの全身タイツを着て、空中ブランコなどをする、というわけの分からないクラブでしたが、ここに見られる蛇もまた、ギリシア神話に登場する、下半身が蛇の女性、ラミアと同一視されることもあるリリスの暗示ではないかと思います。アトウッドの作品にはフェミニズム思想が反映されているので、フェミニズム運動の象徴でもある、リリス的な存在は重要なのでしょう。クレイクは他の人がどう見たかが語られるのみであって、すべてを引き起こした最重要人物であるはずなのに、彼自身の「声」を持ちません。私は、最後にはクレイクの手記のようなものが発見されて、彼の思想が知らされることを期待していたのですが、「神」は「預言者」を通じて語られ、自分の声を持つことはありませんでした。

Oryx and Crakeのテーマが科学、The Year of the Floodのテーマが宗教であるとするなら、本作のテーマは歴史や物語だろうか、と思います。クレイクは、Oryx and Crakeにおいて、人間が表象的思考を発達させ過ぎたことが今日の失墜の原因だ、と言います。
Symbolic thinking of any kind would signal downfall, in Crake's view. Next they'd be inventing idols, and funerals, and grave goods, and the afterlife, and sin, and Linear B, and kings, and then slavery and war. (Oryx and Crake)
そして、表象的思考を持たない存在としてクレイカーを創造したのでしたが、皮肉なことに、本作でクレイカーは、物語や、神のようなクレイクといった、抽象的なものを強く求め、文字を積極的に学ぶようになっています。クレイカーは、ジミーやトビーの物語の源泉を、ジミーの赤い野球帽と壊れた腕時計、及び自分たちが持ってくる魚にあると考えていて、人間が物語をする時の儀式として、帽子をかぶり、時計の音を聴いて魚を食べるように要請します。クレイカーは科学技術の発達の申し子で、衣服なしで生活することができ、闘争本能を持たないように設計されています。しかし、人間と同じように知能や精神を持っているので、記号や物語なしでは生きられません。

本作は、前二作と比べると深刻さが軽減され、楽しく気軽に読めますが、やはり全体のスケールが大きすぎて、最後はやや拍子抜けでした。単に暴力的なだけのペインボーラーと戦って…というのは、それまでの展開を考えるとちょっと卑小な気がします。ジミーやレン、アマンダはあまり前面には出ず、共同生活をするグループの一員として、薄い色で彩色されているように思いました。

MaddAddam三部作をおもしろく読んだので、ハーヴァード大学で開催されたアトウッドの受賞式に行きました。アトウッドと、俳優のジョン・リスゴーの対談を聴きました。小柄な老婦人でしたが、エレガントで、お話はウィットにあふれ、非常に魅力的な方でした。ただ、残念ながら三部作の話はほとんどありませんでした。youtubeには、シアトルで行われた、三部作についての講演がアップロードされているので、見てみます。

2014年5月18日日曜日

The Book and the Brotherhood(本)



【書誌情報】
Iris Murdoch, The Book and the Brotherhood, Chatto & Windus, 1987

【あらすじ】
かつてのオクスフォード大学の同級生である、50がらみの5人ほどの仲間たちは、家族や知り合いを交えて、仲間内の左翼著述家、デイヴィッド・クリモンドがマルクス主義や哲学に関する長大な本を執筆するのを経済的に支えている。このグループのリーダー的存在である元大蔵官僚のジェラードと、彼の親友、ローズを中心として、教師であるジェンキン、官僚のダンカンとその夫人のジーンらは、定期的に集まってパーティや議論を行っていた。しかし、夏至のダンスパーティにて、ジーンがクリモンドに誘惑され、夫のダンカンを捨てて、クリモンドと同棲を始めたことをきっかけとし、すべての登場人物の人生に劇的な変化が訪れる。クリモンドは非常に知的で、多くの女性を魅了する存在であり、ジーンは過去にも彼と出奔したことがあった。
1987年のブッカー賞候補作である。

【コメント】
本書はアイリス・マードックの小説の中で最長で、登場人物も並外れて多いです。人物相関図がないと混乱してくるので、解説として付属していると親切かと思いますが、なかったので仕方なく自分で作りました。オクスフォード卒のインテリで、社会的にも高い地位の仕事に就いて不自由ない生活をし、学生時代からの仲間と親密な交際をして、という羨ましいエリートたちの、複雑に絡み合う人間模様を描きます。

「魅惑者」に抗いがたく惹きつけられる女性、シングルマザーとその娘の確執、ゲイの男性に30年も片思いする女性、友情と愛情、シンボルや魔術、金銭問題など、扱っているテーマも多岐に渡り、その合間にはマルクス主義や哲学、宗教などの抽象的な議論が延々と繰り広げられます。一つ一つのテーマも深く掘り下げられ、本書自体が、クリモンドが書こうとしているような大作であることは間違いないのですが、登場人物も扱う問題も多すぎて、拡散している感があり、途中、同じことを繰り返したり、睡眠中の夢の話が多かったり、やや迷走気味な印象です。

多くのキャラクターが、くっきりとした性格的な特徴を持っているのに、肝心の「魅惑者」クリモンドと、彼と心中を願うほど強く惹かれるジーンは、容姿の美しさ、聡明さと「魅力」が強調されるものの、文章からは、ほとんどその魅力の実態が分かりません。中心に強い光を当てすぎて、陰影が消え、その部分が白く飛んでいる写真のようです。ジーンは、自分が平穏な生活を捨て、クリモンドのもとへ走ったことを
But you must take it that we inhabit two absolutely different worlds. You rely on continuity, you live by a certain quiet seamless order in your life ,it suits you, you've lived and thrived on it, whereas it has gradually suffocated me.
と説明します。ジーンもオクスフォード卒の秀才で、美人で裕福であり、あらゆる輝かしい功績の可能性がありましたが、外交官夫人として夫の成功を支えるという、脇役的な人生を選択します。クリモンドと同棲を始めると、彼に、自分の才能を活かせる仕事を探すように、と勧められます。しかし、そうはせずに、他人の収入と目標を当てにして生きることになります。クリモンドと同棲するジーンは、家政婦のような存在であって、ひたすら彼に尽くし、彼の行き先すら聞かされることはありません。命がけの不倫の結果は、案外空虚です。

不倫の結果は空虚でも、周囲に甚大な影響を及ぼします。拡散していて、あまり集中できない、と思いつつ、私もしっかり物語に取り込まれ、意表を突く破壊力のあるクライマックスに衝撃を受けました。「もう本なんか読みたくない」と言って、毛布をかぶって部屋の隅で壁に向かっていたいような気分になりました。
Vast tracts of his soul no longer existed, his soul was devastated and laid waste, he was functioning with half a soul ... What remained was darkened, shrivelled, shrunk to the size of a thumb. 
それだけのクライマックスを用意しているのに、いろいろ詰め込みすぎでラストは消化不良の感が否めません。The Flight from the EnchanterA Fairly Honourable Defeatでもそうでしたが、あらゆる点で恵まれているキャラクターが、温厚でまじめな人々を散々掻き回した挙句に、自分だけはほとんど無傷のまま抜け出す、というのは何とも不条理です。とはいえ、クリモンドの本は完成します。A.S.バイアットによるマードック論Degrees of Freedomを参照すると、不穏さを含む結末について、以下のように記されています。
The novel is full of real fear that we are at the end of some phase of civilization and can glimpse an incomprehensible world to come.
このbrotherhoodの構成員は、全員が急進的で、左翼の無神論者なので、無垢と純真の化身のように扱われていた、若いタマーがある事件をきっかけとして、宗教に救いを求めるようになると、メンバーが大変なショックを受けて「でも、まさか本当に神の存在を信じているわけではないよね?!」と慌てるシーンがおかしいです。タマーの成長と変化は本書の見どころの一つです。

マードックの作品の中でも大傑作だとは思いませんが、これだけ内容の濃い小説を、40年間で26冊も書いたというのは本当に目覚ましいことだと思いました。また、他の小説にも見られる、実態の不明な「魅惑者」のモデルは、マードックの愛人だったエリアス・カネッティがモデルだというので、カネッティの著作はいずれ読んでみたいです。

2014年5月13日火曜日

名所・ウォールデン池



一昨年もちょうど同じころに行った、ウォールデン池を再訪しました。その時よりも天気が良く、水が青くキラキラしていました。気温は25度前後ありましたが、水は冷たいので、泳ぐのは諦めて足だけ浸かりました。砂浜に寝そべって日焼けをしている人が多かったです。日本では、とにかく「美白」とか「日焼けをしないように」といって、夏でも肌を覆い、日焼け止めをつけて、日傘をさして極力日光を浴びないようにすることが推奨されるので、わざと日焼けをするのはもったいなく思えます。




ニューイングランド地方の観光名所の一つで、私はこのあたりでもっとも美しい場所の一つだと思っています。着替えをする小屋と、石を積んだ階段のようなベンチ以外は、人の手が入っていないため、景観が良いです。見渡す限り、近代的な建物や、電線や、子供向けの遊具のような、あれやこれやの余計なものが目に入りません。うまく、ほどよく整備された湖で、休日にちょっと出かけるにはうってつけです。何かをする、とか気合を入れて遊ぶのではなく、ただ散策したり、ぼんやり過ごしたりするのに良いです。

とはいえ、H.D.ソローのように湖畔の小屋で長期間暮らすのは無理です。

2014年5月12日月曜日

キッシュ



冷蔵のパイシートを買ってきて、キッシュを焼いてみました。パイシートをオーブン皿に敷き、具はハム、ブロッコリー、茹でたジャガイモを入れて、牛乳、生クリームと、とけるチーズを加えた卵液をかけて焼くだけなので、簡単です。日本で作るとかなり経費がかかりますが、すべてアメリカでは安く入手できるので、アメリカ向きな料理だと思います。カロリーが高そうです。夫はとても気に入っていました(お皿舐めないで)。パイ料理は見栄えもするので、パーティにもいいかも、と思います。

縁のパイ皮が途中で焦げそうになったので、アルミ箔をかけて焼きました。そのためか、フィリングの部分は少し茶碗蒸しのような食感になりました。茶碗蒸しは、いろいろと下ごしらえの必要なものを具に使用するので、作るのはキッシュよりも手がかかりますが、栄養という意味では茶碗蒸しの方が良いのかもしれません。味という意味では、二つ並んでいたら私は断然茶碗蒸しに飛びつきます。

2014年5月9日金曜日

ニューヨークのお土産、ヴィンテージなど



 ニューヨークの5番街にはいくつかの老舗デパートがあります。「話の種に」とBergdorf&Goodmanに入ってみましたが、夫が「数十ドルだったら家族へのお土産にしよう」と言ってハンカチほどのサイズのスカーフを手に取ると、タグに「1,050ドル」と書いてあったので、尻尾を巻いて逃げ出しました。代わりに、メトロポリタンのミュージアムショップで買いました。

高級店は手が出ないので、フリーマーケットとヴィンテージショップに行きました。MoMAの、フランク・ロイド・ライトの栞は金属製で栞としては使い勝手が悪いので、飾り用です。小物入れはアウガルテン製です。ウィーンに行ったとき、アウガルテン本店に行きましたが、高価すぎました。フリーマーケットでホコリをかぶっているのを見つけました。磨くときれいになりました。ブローチは、日本の雑誌に掲載されていたPippin Vintage Jewelryで買いました。品物は1950年代以降のコスチュームジュエリーが中心でしたが、引出しにしまわれていた小さな金メッキのブローチは、19世紀のものだそうです。金色のロゴが印刷された青い紙箱に入れてくれました。

たくさんお金を出せば良いものが買えるのは当然ですが、就労しておらず、お金持ちでもないので、安くて好みに合うものを探す方が好きです。夫はこういったものにはまったく関心がありませんが、買い物中は待っていてくれました。なるべく長居せずに、サッと見るようにしましたが、何か所かまわったので、それなりの時間はかかりました。関心がないのに、買い物を見せるといつも「いいね!」と言ってくれます。



2014年5月8日木曜日

コニーアイランド



コニーアイランドは、O.ヘンリーの短篇によく登場する遊園地です。19世紀に創業した老舗の遊園地で、かつては一大行楽地として隆盛を誇ったものの、20世紀半ばころから衰退し始め、2008年には一旦廃業しました。その後、リノベーションされて現在に至ります。


O.ヘンリーの短篇に登場する、つましいニューヨーカーが「コニーアイランド」を語るときの、日常からそれほど遠くないけれど、少し特別な、同時に親しみのこもった感じが、良いです。また、大学のアメリカ文化史の講義では、「コニーアイランドは、今ではすっかり荒廃しています。寂れた遊園地には独特の雰囲気があるので機会があれば訪れてみてください」と教わりました。遊園地のアトラクションに特段の興味はありませんが、「19世紀と同じ遊具」、「荒廃している」ときけば憧れが募ります。コニーアイランドはぜひ行ってみたいものだと思っていました。


古い設備を放置していても、治安の観点からあまり良いことはなさそうですし、リノベーションは必要だったのでしょうが、遊園地としては(一部、古い遊具は残っているようですが)すっかり普通になってしまいました。特に荒廃しているわけではありません。行った日は休みでしたが、休日は賑わうのだろうと思います。。ただ、海辺にあって、海を眺めながらアトラクションに乗れるのはやはり魅力だろうとは思います。外側から眺める図も、絵になります。海は紺碧で、きれいでした。

2014年5月7日水曜日

メトロポリタン美術館再び



月初の週末をねらい、Bank of Americaの口座保持でメトロポリタン美術館を無料で見ました。美術館は改装中で、建物のまわりにはシートが張ってあり、内部も閉鎖中の所がありました。広大過ぎて全部見ることはできないので、エジプトやアジアはスキップし、ヨーロッパとアメリカを中心に見ました。


サージェントの「マダムX(ゴートロー夫人)」です。縦長の作品で、少し高い位置に配置されているので、上の方が光ってよく見えません。それでも、本作に関する事実をもとにした小説を読んだので、モデルと作品のユニークさが理解できます。サージェントはアメリカ最高の画家だ、と断言します。アメリカのいろいろな美術館での彼の作品及びその扱いを見ると、他の画家とは一線を画す存在であることがよく分かります。


ウィンズロウ・ホーマーは、サージェントほどの知名度ではないかもしれませんが、アメリカの国民的画家だと思います。スカートを絞っている仕草がユーモラスです。




今回、美術品は、実物ではなく、作品名の記載があるプレートを写真に撮って、後で画像検索する方針にしたのですが、シャヴァンヌとハンマースホイは、見つけたらとりあえず写真を撮ることを習慣にしています。また、フェルメールを見ると俄然、ミーハー根性を発揮し、絵の前で記念撮影します。メトロポリタン美術館所蔵の「眠る女性」と「リュートを調弦する女性」は特に好きな2枚です。

お姉さん「これ、わしのイノシシ」
お兄さん「いや、わしの」
後ろの人「泥棒!プワー!」
「真ん中の人、無理のある姿勢やな。これは苦しいやろ。左の子はなぜか鼻つまんどるし」
好きな作品、美しい作品は鑑賞してひたすら快い気分に浸れば良いですが、あまり気に留めなかった作品でも、夫が本来の主題とは関係のない、おかしなストーリーを教えてくれることがあります。上の作品はルーベンスの「メレアグロスとアトランタ」下はヴァン・ダイクの「聖母被昇天」です。夫がおもしろいキャプションをつけた写真はこちらにあります、とさりげなく宣伝しておきます。

2014年5月6日火曜日

ブロードウェイの『オペラ座の怪人』

開演前。ピンボケですみません。
結婚する前に映画館で見た映画で、印象的なのは2005年に公開された『オペラ座の怪人』です。夫も気に入って、CDを買って(誇張でなく)100回以上聴き、一時はメールアドレスをヒロインの名前にしていたほどはまっていました。映画も良かったですが、ミュージカルはぜひ一度ライヴをみてみたいと思っていたので、夫にお願いして連れて行ってもらいました。

ブロードウェイにはたくさんの劇場があり、『オペラ座の怪人』はマジェスティック劇場の演目です。中高生の観客も多く、途中入場でザワザワしたり、お菓子や飲み物を販売する人がいたりと、クラシックのコンサートとは違う雰囲気でした。

シャンデリアにあかりが灯り、天井まで引き上げられていくオープニングシーンはさすがの大迫力で、思わず感涙にむせびました。音量は通常であればうるさいと感じるほど大きいですが、この音楽とダイナミックさには、大音量でちょうど良いのかもしれません。役者は、演技をしつつ、歌いながら踊って本当にすごいと思いました。撮り直しもできないのに、一発で決めるのはまさに技のいることだと思います。舞台装置も豪華です。ドライアイスを炊いて、転々とロウソクをともし、その中をゴンドラで移動するシーンは幻想的ですし、シャンデリアの落下や、仮面舞踏会など、有名な場面はいくつかありますが、その他も細部まで凝っていて、ストーリーを知っていてもワクワクします。夫が「もし寝てしまったら起こしてや」と言っていましたが、寝ている暇はありません。映画における「すごさ」はちょっと当たり前になってしまっているのですが、舞台との距離がこれくらい近くて、目の前ですごいことをしているな、という気分が、映画とは異質な感動をもたらすのだろうか、と思いました。

「いつかは…」と願っていたことを実現できて、印象深い経験でした。日本語訳されたミュージカルをみるのは、どういうわけか気恥ずかしくて、あまり行きたいと思わないので、ニューヨークで見られてうれしく思いました。図書館でDVDを借りてきて見ましょう、と夫と話しました。気前良く親切な夫に感謝します。

ニューヨーク近代美術館


日本のゴールデンウィークの時期に、ニューヨークへ旅行しました。金曜日の16時以降は、ユニクロがスポンサーとなって一人25ドルの入場料が無料になるので、その時に行きました。現代美術は私には理解できない作品が多く、25ドルの入場料はちょっと高すぎる気がしますが、無料で見られるなら、一度は行ってみたい名所です。もちろん、その時間帯に人々が詰めかけるので、かなり混雑します。



ただただワケワカラナイ作品も多いですが、ジョセフ・コーネルの箱は美しいです。この美術館にあるものをどれでもいいから一つもらえるなら、この方位磁石が入っている箱がいいなと思いました。


マティスの「ダンス」は、現在読書中であるアイリス・マードックのThe Book and the Brotherhood(=『本をめぐる輪舞の果てに』)の日本語版の表紙絵に使われています。あざやかな色彩の、大きな絵画でインパクトがあります。


意外と小さくて驚いたのは、ダリの「記憶の固執」です。これは夫のお気に入りの一枚で、夫は部屋にポスターをかけています。ポスターは優に実物の5倍はあるサイズで、私はてっきりポスターよりも大きいのかと思っていました。これは、美術館の中でも特に人気のある作品で、大勢の人々が集まっていて、なかなか近寄れず、写真も撮れませんでした。ただ、美術品の写真は、私が撮るよりもはるかにきれいな写真がインターネット上で簡単に見つけられるので、そのものを撮ることはあまり意味がなく、このようなマヌケな写真の方が後から見ると感慨深いです。

ミュージアムショップはおしゃれな雑貨を取り揃えていることで有名です。無印良品の製品を多く取り扱っていました。

 好みの問題は別としても、展示内容は非常に充実していて、ニューヨークの美術館の中でも人気があるので、行くことができて良かったです。ユニクロさまさまでした(ミュージアムショップでユニクロも取り扱えばいいのに)。

2014年5月1日木曜日

Henry and Cato(本)

ティツィアーノ「アクタイオンの死」ロンドン、国立美術館蔵
【書誌情報】
Iris Murdoch, Henry and Cato, Penguin Books他、1976

【あらすじ】
アメリカの大学で教鞭をとる、ヘンリー・マーシャルソンは、兄の死により、先祖代々の広大な屋敷と領地を相続することになり、イギリスに帰国する。家族との確執等の理由で、すべてを手放して、遺産に頼らず生きようとするが、周囲の人々の理解を得ることができない。ヘンリーは、兄の愛人であった娼婦のステファニーを愛するようになるが、出身や性格に共通点のない二人は、衝突が絶えない上、ヘンリーの母ゲルダは息子を幼馴染のコレットと結婚させようとする。一方、コレットの兄ケイトーは、僧職に就き、スラム街で貧者救済活動に従事していたが、突如として神が不在であると考えるに至る。ケイトーは還俗するものの、美しい容姿の泥棒少年、ジョーへの執着を断ち切ることができず、ヘンリーに金の無心をしてジョーに教育を受けさせようとする。ジョーは聖職者としての威厳を失ったケイトーに従わず、悪に手を染める。

【コメント】
善人と優等生ばかりが登場する話は退屈ですが、エゴイストとダメな人と悪人しか登場しない小説を読むのはくたびれます。本書の主要登場人物は、二つの家族です。一方は非常に裕福なマーシャルソン一家で、寡婦であり、愛する息子を喪ったゲルダと、ゲルダに寄生しているルーシャス、ゲルダの息子で、自分は死んだ兄と差別されたと考え、父・兄から相続した財産をすべて処分しようとするヘンリーです。他方は、近所に住むフォーブス一家で、合理主義的で社会主義に傾倒している寡夫のジョン、その息子ケイトー、最近大学を中退した娘のコレットがいます。

マーシャルソン家は財産を、フォーブス家は強固な信念や思想、及び宗教的威厳を、「持てる者」であり、彼らと対照的なのが、もと娼婦のステファニーや、泥棒のジョーです。持てる者と何も持っていない者の交流は対等であるはずもなく、愛情、ひいては欲望を憐れみと混同したが故に、悲劇が起こります。ヘンリーは、「自分の資産を投げうって、地域に不足している住宅を供給したい」という、ケイトーは「神の力で犯罪少年を更正させたい」という理想に燃えます。ヘンリーは幼少期に両親の愛情を得られなかったことについて不満を抱いており、ステファニーに物質的満足を与えることで感謝と尊敬を得ようとするものの、ステファニーにとっては彼の財産こそが魅力です。ケイトーはジョーを更正させるためにヘンリーに金銭的援助を求め、その上から目線の依頼にヘンリーは苛立ちます。ケイトーはジョーを同性愛の対象とみなしているのに、本人も意識せずに慈愛であるとごまかそうとします。ジョーは法衣を捨てたケイトーに従う意味を見出さず、ケイトーの愛情の正体と、彼から金銭を引き出すことができることを見抜きます。ヘンリーとケイトーの独善的な理想主義に反発するのは当然とは思うものの、他の登場人物の享楽主義、犯罪、エゴイズムも不快であり、それぞれが他人を顧みずに突き進むので、読んでいて苦いものが喉の奥にわだかまっているような、気分の悪さを覚えました。先が気になるのに、集中的に読むのは辛く、1頁読んで、他の本を読んで、また1頁読む、というあるまじき読み方をしていました。

それが、7割を過ぎたあたりから急展開を見せ、意外なことの連続で、愚かさが招いた悲劇とも読めるのに、結末はちょっとさわやかな感じにまとめているのがニクいです。「兄の命と引換えに…」といって妹に乱暴しようとするのはシェイクスピアの『尺には尺を』を思わせます。『尺には尺を』は、史上最悪の納得できないストーリーですが、本書は充分説得力のある、きれいな形(といっても、「いい話」ではありません)をとっていて、なるほど、と思いました。

途中まであれだけ嫌な気分にさせておいて、読後感はなかなか良い、というのはヤラレタ感があり、反則のような気もしますが、 不自然さのない急展開は「巧いなぁ」とも思います。マードックは心理描写が容赦なく、内容が緻密で、読書が辛いときもありますが、それにたいして得られるものがいかに大きいかを考えると、やはりやめられません。

日本語訳のタイトルは『勇気さえあったなら』で、これは本文の一節から取られています。『ヘンリーとケイトー』ではまったくおもしろみもないですが、皮肉が込められたおしゃれな邦題だと思いました。