ギュスターヴ・モロー |
【書誌情報】
村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、新潮社、1985年
【あらすじ】
Wikipedia
【コメント】
アメリカ人の友人が主催する読書会の課題図書でしたが、英訳を読むのは気が進まなかったので日本語で読みました。現在活躍中で、作品も広く普及している日本人作家の作品はあまり食指が動かず、世界的に有名な作家なのに、恥ずかしながら読んだのは初めてです。半分くらい読んだところで読書会は中止になってしまいましたが、せっかくなので読みました。
評価が高く、人気のある作家の作品を「つま○ない」などと言うのは、自分の理解力のなさと感性の低さを露呈するようで、憚りがありますが、他人の夢日記を読んでいるかのようで、白けました。平たく言うとつ○らないです。サイファイ的な舞台設定に目新しさはあるものの、人間関係と心理描写がどうにも薄いというか、物足りなく感じました。主人公はスカした変な男で、違和感があって乗れないし、音楽や服のブランド、お酒の銘柄の固有名詞が頻繁に登場し、かなり大切なもののように扱っているのもあざといように思いました。
とはいえ、本作の『失われた時を求めて』への言及は、興味深く読みました。冒頭から「プルースト」の名前が、物語の内容とは無関係に登場します。主要登場人物である、「博士」とその孫娘との緊密な関係は、『失われた時を求めて』の語り手の祖母と、語り手の関係を彷彿とさせます。図書館員の女性が主人公のために便宜を図ったことのお返しに所望する「コーヒーとピスタチオのアイスクリーム」は『失われた時を求めて』第一部で、語り手の両親がスワン氏にふるまったアイスクリームのフレーバーですし、『世界の終り~』の、以下のような記述は、プルーストを意識しているように思います。
「失ったものは既に失われたものだ。あれこれと考えたところでもとに戻るわけではないのだ。」『失われた時を求めて』がメビウスの輪的構造になっているところ、本作は入れ子構造になっているのも、偶然ではないのかもしれません。ただ、個人的には本作がプルーストのように100年も読み継がれる作品なのかどうかは疑問です。
「優れた音楽家は意識を音に置きかえることができるし、画家は色や形に置きかえる。小説家はストーリーに置きかえます。」
Wikipediaを読んで「セカイ系」について興味を覚えました。
まったく関係がありませんが、「世界の終り」ではなく、ケイト・アトキンソンの『世界が終わるわけではなく』の方が好みに合います。ついでに言うと、『世界が終わるわけではなく』は入れ子かつメビウスの輪的構造の短篇集です。
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