サラ・ベルナール |
Iris Murdoch, The Black Prince, Chatto & Windus,1973
【あらすじ】
税務署に勤める傍ら、数冊の小説を発表したブラッドリー・ピアソンのもとに、作家友達のアーノルド・バフィンから「口論の果てに妻のレイチェルを撲殺してしまったようだ」という電話がかかってくる。ブラッドリーは離婚した元妻の弟で、無免許医のフランシスを連れてアーノルドを訪うが、レイチェルは脳震盪を起こしただけで無事だった。ブラッドリーの元妻クリスチャンは再婚して渡米したが、最近夫が死亡してロンドンに戻り、ブラッドリーに会いたがっていた。一方、ブラッドリーはバフィン夫妻の娘で、何をやっても長続きしないジュリアンより「作家になりたいから個人教授して欲しい」という依頼を受ける。家族や友達と離れて静かに執筆したいと願うブラッドリーだったが、妹のプリシラが「夫が私を殺そうとしている」と言ってやってきて、睡眠薬を一瓶飲むなどの騒ぎを起こすため、なかなか出かけることができない。
【コメント】
うかつにこんなことを言うと叱られそうですが、本書を読んでナボコフの『ロリータ』を思いました。58歳の主人公、ブラッドリー・ピアソンは友人の娘で20歳のジュリアンに夢中になり、自分の思いを、他人には理解できない「究極の愛」だと思い込みます。『ロリータ』のハンバート・ハンバートはインテリで、作品中にも難しいメタファーや引用が散りばめられていました。The Black Princeのブラッドリーは、インテリとして自己認識していますが、実際のところ高等教育を受けておらず、学歴コンプレックスでその上ミソジニストです。本書は90パーセント以上がブラッドリーの一人称で語られ、最後に他の登場人物と、謎の編者による後書きが添えられます。ブラッドリーは自分に関わるすべての人を見下していて、自分は超然とした芸術家であると考えていますが、内実は伴っていません。歪んだ自意識の下、展開する物語には最初から不穏な雰囲気があります。
本書は、部分的にシェイクスピアの『ハムレット』に取材しているそうで、文章中にも何度も言及があります。ハムレットは、父を亡くしたばかりなので黒い喪服姿で演じられることが多く、The Black Princeというタイトルも「喪服を着たハムレット」を指していると考えられます。玄関の呼び鈴が鳴って家族や友人が訪ねてくるとか、電話がかかってくることが全体で20回以上はあり、演劇における俳優の登場を思い出させます。人が訪ねてきたり、電話がかかってくる度に、状況が少しずつ悪い方向に転じて行き、緊張が高まり今にもとんでもないことが起きそうだ、と思います。
ブラッドリーの言動、思考は本人によって一応合理的な説明は付されているのですが、かなりおかしな部分が多いです。読み手が彼に対して抱いた違和感について、後書きで説明がされます。全体として、「鏡」の存在を感じさせる構成になっていて、それにはたとえば以下のようなことが挙げられます。
- ブラッドリーには精神状態の不安定な妹がいて、元妻のクリスチャンには精神科医の弟がいる
- 夫に虐げられる、ブラッドリーの母とクリスチャンの母
- ゲイの義弟フランシスと、少年のような魅力のジュリアンを愛するブラッドリー
- ブラッドリーと彼の義弟(妹の夫)は、自分と同じ年頃の妻との関係がうまくいかず、若い女の子に溺れる
- ブラッドリーは中年女性に追いかけられ、自分は若いジュリアンを追いかける
- 「妻を殺してしまった」という電話に始まり、「夫を殺してしまった」という電話に終わる
歪めることができる鏡は科学博物館などで見ることがありますが、1分も遊べば気が済むものであって、何百ページも歪んだ世界に浸っていたら少しくらくらしてきます。にもかかわらず、ちょっと気持ちが悪くなるような主人公の語りを、延々と読ませる文章の魅力があって、本を置くことができません。4人の登場人物による後書きもまた、それぞれ別の方向に少しずつ歪んだものを見る印象で、煙に包まれたような不思議な読後感です。
日本語訳は『ブラック・プリンス』のタイトルで出版されていましたが、現在は絶版のようです。
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