Henry and Cato(本)

ティツィアーノ「アクタイオンの死」ロンドン、国立美術館蔵
【書誌情報】
Iris Murdoch, Henry and Cato, Penguin Books他、1976

【あらすじ】
アメリカの大学で教鞭をとる、ヘンリー・マーシャルソンは、兄の死により、先祖代々の広大な屋敷と領地を相続することになり、イギリスに帰国する。家族との確執等の理由で、すべてを手放して、遺産に頼らず生きようとするが、周囲の人々の理解を得ることができない。ヘンリーは、兄の愛人であった娼婦のステファニーを愛するようになるが、出身や性格に共通点のない二人は、衝突が絶えない上、ヘンリーの母ゲルダは息子を幼馴染のコレットと結婚させようとする。一方、コレットの兄ケイトーは、僧職に就き、スラム街で貧者救済活動に従事していたが、突如として神が不在であると考えるに至る。ケイトーは還俗するものの、美しい容姿の泥棒少年、ジョーへの執着を断ち切ることができず、ヘンリーに金の無心をしてジョーに教育を受けさせようとする。ジョーは聖職者としての威厳を失ったケイトーに従わず、悪に手を染める。

【コメント】
善人と優等生ばかりが登場する話は退屈ですが、エゴイストとダメな人と悪人しか登場しない小説を読むのはくたびれます。本書の主要登場人物は、二つの家族です。一方は非常に裕福なマーシャルソン一家で、寡婦であり、愛する息子を喪ったゲルダと、ゲルダに寄生しているルーシャス、ゲルダの息子で、自分は死んだ兄と差別されたと考え、父・兄から相続した財産をすべて処分しようとするヘンリーです。他方は、近所に住むフォーブス一家で、合理主義的で社会主義に傾倒している寡夫のジョン、その息子ケイトー、最近大学を中退した娘のコレットがいます。

マーシャルソン家は財産を、フォーブス家は強固な信念や思想、及び宗教的威厳を、「持てる者」であり、彼らと対照的なのが、もと娼婦のステファニーや、泥棒のジョーです。持てる者と何も持っていない者の交流は対等であるはずもなく、愛情、ひいては欲望を憐れみと混同したが故に、悲劇が起こります。ヘンリーは、「自分の資産を投げうって、地域に不足している住宅を供給したい」という、ケイトーは「神の力で犯罪少年を更正させたい」という理想に燃えます。ヘンリーは幼少期に両親の愛情を得られなかったことについて不満を抱いており、ステファニーに物質的満足を与えることで感謝と尊敬を得ようとするものの、ステファニーにとっては彼の財産こそが魅力です。ケイトーはジョーを更正させるためにヘンリーに金銭的援助を求め、その上から目線の依頼にヘンリーは苛立ちます。ケイトーはジョーを同性愛の対象とみなしているのに、本人も意識せずに慈愛であるとごまかそうとします。ジョーは法衣を捨てたケイトーに従う意味を見出さず、ケイトーの愛情の正体と、彼から金銭を引き出すことができることを見抜きます。ヘンリーとケイトーの独善的な理想主義に反発するのは当然とは思うものの、他の登場人物の享楽主義、犯罪、エゴイズムも不快であり、それぞれが他人を顧みずに突き進むので、読んでいて苦いものが喉の奥にわだかまっているような、気分の悪さを覚えました。先が気になるのに、集中的に読むのは辛く、1頁読んで、他の本を読んで、また1頁読む、というあるまじき読み方をしていました。

それが、7割を過ぎたあたりから急展開を見せ、意外なことの連続で、愚かさが招いた悲劇とも読めるのに、結末はちょっとさわやかな感じにまとめているのがニクいです。「兄の命と引換えに…」といって妹に乱暴しようとするのはシェイクスピアの『尺には尺を』を思わせます。『尺には尺を』は、史上最悪の納得できないストーリーですが、本書は充分説得力のある、きれいな形(といっても、「いい話」ではありません)をとっていて、なるほど、と思いました。

途中まであれだけ嫌な気分にさせておいて、読後感はなかなか良い、というのはヤラレタ感があり、反則のような気もしますが、 不自然さのない急展開は「巧いなぁ」とも思います。マードックは心理描写が容赦なく、内容が緻密で、読書が辛いときもありますが、それにたいして得られるものがいかに大きいかを考えると、やはりやめられません。

日本語訳のタイトルは『勇気さえあったなら』で、これは本文の一節から取られています。『ヘンリーとケイトー』ではまったくおもしろみもないですが、皮肉が込められたおしゃれな邦題だと思いました。

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