A Word Child(本)


あまりうまい絵付ではない気がするが

真似して描いたらしいこれはちょっと酷すぎる。腕が生えている位置がおかしいし、顔がへのへのもへじ。
(ボストン美術館所蔵。本文と関係ありません)

【書誌情報】
Iris Murdoch, A Word Child, Chatto & Windus, 1975

【あらすじ】
ヒラリー・バードは貧しい孤児で、妹とともに恵まれない少年時代を過ごす。しかし、彼は語学に天賦の才能を示し、オックスフォード大学に学び、研究者の仲間入りをする。自らの才能と努力により惨めな境遇を脱却し、栄光の道を駆け上るかに見えたが、オックスフォードの先輩、ガンナーの美しい夫人と不倫関係に陥った上に、とりかえしのつかない過ちを犯す。ヒラリーはこれをきっかけにアカデミックから身を引き、公務員として地味に貧しく勤める。彼は栄光への未練を捨てたかのようだったが、常に鬱屈した思いを抱えていた。ヒラリーには変人ではあるものの、一途なガールフレンドのトミーがおり、最近は「ビスケット」と名乗るエキゾチックな美人が自分に接近してくるのが気になっているところである。一方、ガンナーは研究の世界から離れつつも、各方面で華々しい活躍を見せ、ヒラリーとの間には十数年間交流がなかった。ヒラリーは自分の上司としてガンナーが就任すると聞き、動揺する。

【コメント】
冒頭からマードックらしく複雑に絡み合う100人ほど(大げさ)の登場人物が入り乱れ、饒舌であり、始め2~3割は主人公の退屈そうな公務員生活と、魅力のうすいガールフレンドとの関係が延々と綴られ、あまり乗れません。でも、才能があったにもかかわらず、ヒラリーがそれを活かして成功しようとしなかった経緯が語られると、俄然おもしろくなります。

先輩であるガンナーの夫人と不倫の恋をして身を滅ぼしたヒラリーですが、長い間音信不通だったガンナーが上司として就任すると、運命が過去をなぞらせるかのように自分を導いていると考えます。興味深いのは、全篇、主人公が一人称で語っているにもかかわらず、同時に突き放した第三者の視点を感じることです。主人公は嫌味な性格で、自分だけが並外れた知性を持ち、他の人たちの何倍も苦しんでいるが故に特別で重要だ、という思いと、人生の落伍者であるという思いが折り重なって屈折しています。嘲笑と劣等感が常に表裏一体の自分語りはちょっといたたまれない思いがしてくるほどですが、主人公に共感の余地はなく、読み手と語り手の間のギャップの存在を意識させます。

緻密に構築したカタルシスを、無残に180度ひっくり返して、主人公が冒頭にいた場所よりも悪いところに沈んでしまうという、重たい内容です。主人公が救われたように錯覚したのは、実は自然発生的なものではなく、純粋でない思惑の下、薄氷の上に巧妙に作り上げられたカタルシスでした。故に、軽い力で持ち上げただけでシーソーのように跳ね上がり、はずみで極寒のテムズ川に落ちて死にそうな思いをして、救われないのも無理もないかもしれません。マードックは、The Good Apprenticeでも意図しない殺人と贖いをテーマとしていたところ、本作でも同様のテーマを扱っています。両作品において外部からの救済はありえないのですが、本作では救済自体が不可能である、という暗澹とする結論が提示されていて、400頁読んだ挙句にそんなことを言われるのは辛いと言わざるを得ません。

マードックの小説の中心となる登場人物はオックスブリッジ出のインテリであることが多いです(マードックはオクスフォード出身で、ケンブリッジにも在籍していたことがあるそうです)。その人たちはその人たちで思い悩んだり理屈をこねこねしたりして楽しそうなのですが、他の登場人物と比べると学がなくて、単純で率直で、心が清らかな登場人物が脇役で登場し、肝腎の場面で目覚ましい行動に出る、ということがよくあります。本書では主人公の妹、クリスタルがその役目を担っています。ヒラリーとクリスタルは非常に近しい間柄ですが、本質は正反対です。陰鬱な内容で、登場人物は屈折した変な人ばかりですが、クリスタルの存在だけがかすかにキラッと光るようで、Crystalという名前にはちゃんと意味があるのだろうと思わされます。

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