【薄明かりの絵画】ミュンヘン派

ガブリエル・フォン・マックス「タンホイザー」1878年頃、ワルシャワ美術館
 【ミュンヘン派の指導者】
19世紀ドイツのアカデミズムは、デュッセルドルフ派もありますが、その期間は1819-1918年に及び、「デュッセルドルフ派」と分類される画家は4,000人に上ります。100年間の長期間に輩出された数千人という画家が、一つの傾向によって分類できるか疑問ですし、多すぎて手に負えないので、取り上げないことにします。ミュンヘン・アカデミーを中心とする「ミュンヘン派」はカウルバッハとピロティが学長をつとめた1850-1918の期間で、代表的な画家は100人もいるわけではありませんが、温かい雰囲気の子供の絵の画家、ゲオルク・ヤコビデスや、神秘主義にも傾倒したガブリエル・フォン・マックス、ウィーンで一世を風靡したハンス・マカルトの興味深い作品があります。

ミュンヘン・アカデミーの学長は、1849年にカウルバッハ(1805-74)が就任しました。また、1856年に教授となり、74年にカウルバッハの後任として学長になったカール・フォン・ピロティ(1850-1918)はミュンヘン派を率いる存在でした。カウルバッハは、ナザレ派のペーター・コルネリウスの後任であり、中世リヴァイヴァルの壁画やフレスコ画を描いています。ピロティは、ミュンヘンアカデミーで学び、風俗画や歴史画を得意とし、ミュンヘンの王宮の壁画を描きました。当時、ドイツのリアリズム美術を代表する画家でしたが、今日ではむしろ教師としての評価が高いようです。弟子にヤコビデス、マカルト、フォン・マックス、レンバッハ等がいます。

【ガブリエル・フォン・マックス】
ガブリエル・フォン・マックス(1840-1915、墺)はプラハ、ウィーン、ミュンヘンのアカデミーに学びました。ミュンヘンアカデミーで教鞭をとり、後年は貴族に叙されました。抑えた色彩で、宗教的もしくは、神秘的・象徴主義的な作品を描きました。超心理学、ダーウィニズム、アジア哲学に傾倒し、神智学協会の会員でもありました。先史時代の民俗学に関する大きなコレクションを所有し、ペットとしてたくさんのサルを飼育し、時には擬人化した姿で、サルの絵も多く描きました。ピロティの弟子ですが、風俗画や歴史画はのこしていません。

ガブリエル・フォン・マックス「解剖学者」1869年頃、ノイエ・ピナコテーク

「解剖学者」は、きわどい絵だと思います。死んだ少女は清らかで美しいですが、この後当然解剖されるわけで、ぞくりとするものがあります。若くはつらつとした女性と並べて骸骨を描いて「メメント・モリ」という絵は時々ありますが、夭逝した少女の、その先、しかも宗教に関連した抽象的な話ではなく、現実をこのように描写するのは珍しいです。

ガブリエル・フォン・マックスは、白い壁やベッドを背景に、白い服の聖女や預言者を描いた絵があり、いずれも独特の病院のような雰囲気があります。


【ハンス・マカルト】
ハンス・マカルト(1840-84、墺)はウィーンアカデミーに学びましたが、才能がない、と言われて退学になり、ミュンヘンでピロティに師事しました。後にウィーンに戻り、絵画の他、家具やインテリア、衣装のデザインも行いました。1870年代には売れっ子となって「マカルト様式」という言葉が生まれたほどでした。1879年の、フランツ・ヨーゼフ皇帝と皇妃エリザベートの銀婚式では、パレードの背景や衣装、車をすべて一人でデザインし、自ら白馬に乗ってパレードを先導しました。この「マカルトパレード」は1960年代まで、ウィーンの名物だったそうです。ガブリエル・フォン・マックスが古代の珍品やサルに囲まれて暮らしたところ、マカルトは彫像や楽器、宝石などを収集し、そのアトリエは美の殿堂のようだった、とヴァーグナー夫人は記しています。皇帝から寝室のデザインを請負いましたが、制作途中で亡くなりました。

マカルト「眠れる白雪姫」1872年
 マカルトは「色彩の魔術師」といわれ、他に類を見ないような鮮やかな色彩と流れるような形が特徴的です。歴史的な主題を舞台の演出のように表現することを得意としました。彼が親交を結んだヴァーグナーのように「総合芸術」の実現を目指していて、パレードはその成果だったといえます。フランスの、ブーグローのライヴァルともみなされました。ウィーンの世紀末美術というと、クリムト(1862-1918)やエゴン・シーレが思い浮かびますが、その前はマカルト全盛期で、クリムトもマカルトから影響を受けています。

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